天理教淺草大教会 会長 宮内泰夫
天理教淺草大教会会長 宮内泰夫
−あなたの“幸せ”を一緒につくるお手伝い−
はじめまして。天理教淺草大教会です。
みどり豊かな自然いっぱいの
天理教の教会です。
季節ごとにきれいな花や
柿やぶどう、梅やザクロなど
色々な実もなります。
子どもたちが庭を走り回る姿や
お年寄りが集い楽しむ光景。
老若男女がゆっくりと過ごせる
アットホームな雰囲気に包まれています。
子育てや家事で心が疲れてしまった時。
仕事や学校でうまくいかない時。
自分の人生に迷ってしまった時。
一人で抱え込まず
気軽に立ち寄ってみてください。
心がすーっと落ち着く時間が
教会には流れています。
天理教が奈良県天理市の「ぢば」より始まって以来、東京の浅草へと進展を見せたのは明治18年(1885年)のことです。
当時浅草の吉原といえば、一夜にして千両の金が落ちたとされる日本有数の繁華街でありました。
そこは「花の吉原」といわれたほど、一見華やかな世界ではありましたが、そこで働く遊女たちの苦悩の程は計り知れないものがあり、中でも当時恐れられていた花柳病(梅毒、淋病)にかかると、充分な手当もされないまま、死を待つだけの悲惨を極めたものでありました。
東京布教を志して上京した上原佐助は、早速この人々を救けることに乗り出し、布教者として足繁く出入りし、教えを伝え広めました。そうするうちに「信仰によって病がたすかる」という事実が、やがて吉原で働く多くの人々を引きつけ、不思議なたすけに導かれて入信する者が相次ぐようになります。
後に淺草大教会初代会長に就任する加藤新兵衞もその1人であり、遊女屋「勝中米楼」を任されていましたが、長らく重い脚気(足の病気)を患い、遂には足腰も立たなくなるほど不自由な身となりました。
その時、同業の方の導きによって、すでに広まっていた天理教の話を上原佐助によって聞かせてもらい、神様にお願いをしてもらったところ、不思議と腰が立つようになり、新兵衞の脚気の病は鮮やかに全快したのでありました。
自身の病をたすけていただいた新兵衞は、それ以来熱心に信仰するようになり、同業の人々にわかりやすく教えを説いて廻り、更には病気で苦しみ、悩みを抱える人々を信仰によって導いていきました。
吉原遊郭の楼主が信仰を始めたことは、それまで以上に多くの人に教えが伝わることとなり、吉原から始まった人だすけの道は、現在の淺草大教会の礎を築くまでに発展することになります。そして不思議なたすかりに感銘を受けた人々が集まって、明治25年4月25日、淺草支教会が設立されることになり、更に人だすけへの道を大きく踏み出したのでありました。
以後、今日までの間には関東大震災や戦時下による教会焼失等、数々の困難を乗り越えて、現在は足立区梅田に教会を構えて活動をしています。